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院長コラム

Vol.141 渡る世間に安楽死は?

 「渡る世間は鬼ばかり」などで有名な脚本家の橋田壽賀子氏が昨年の文藝春秋12月号で著した「私は安楽死で逝きたい」という論考が反響を呼び、今年の3月号で安楽死の是非を問うアンケート結果が公開されました。90歳を過ぎた橋田氏の「認知症になったら安楽死が一番。何もわからなくなって、生きる楽しみがなくなったあとまで生きていようとは思わない。」という主張に、高齢の著名人60人のうち33人が安楽死(回復の見込みのない病気の患者が薬物などを服用し死を選択すること)を支持しました。

 耐え難い苦痛をコントロールできない特殊な例では、積極的な安楽死が容認されることはあると思いますが、認知症に適用することには反対です。生きる意味の有無に線引ができると橋田氏は考えているようですが、日常生活にほとんど障害のない軽症から、何もできない重症まで、認知症は多岐にわたります。彼女は認知症に対して独自のイメージを持っているようですが、自身が思い描いた状態になる可能性はほとんどありません。明確な線引は、家族はもちろん医者にも困難であるだけだなく、法律の上で殺人罪を免れても過酷な決断を強いることになります。

 生まれてくることは自分で決められません。生きることも思い通りにならないことだらけです。だからこそ死に方くらいは自分で選びたいと安楽死を肯定する人は主張します。でも死は生きることに含まれ、やはり思うようにならないのです。尊厳死が取り沙汰されるようになったのは、尊厳のない生が、医療の進歩と経済の発展により普通に見られるようになったからです。末期の認知症患者への経管栄養、末期癌や老衰の患者への侵襲的な救命処置、超高齢者への血液透析の導入、などの延命治療に歯止めをかけることは、生命の尊厳を守り、医療経済上も有意義ですが、医療にはどうしたらよいか迷うグレーゾーンがとても広いのです。その中で安易に答えを求めずに問い続けることに意味があると思うのです。

 同誌で僧侶の釈徹宗氏は、積極的安楽死や過剰な延命に対して、自己の都合を肥大化させる生命の私事化である疑問を呈し、他人に迷惑をかけたくないという理由で老病死をデザインするのは傲慢であると述べています。「人は他人に迷惑をかけずに生きることはできない。迷惑をかけたくないという人が金銭で世話を購入する消費者体質は問題である。大事なのはうまく迷惑をかけて生きることだ。」という主張に共感します。一方で今も毎月の血液検査と毎年の人間ドックを欠かさない橋田氏の行動は理解できません。

院長 笹壁弘嗣

新庄朝日第811号 平成29年4月15日(土) 掲載

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