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院長コラム

Vol.08 手洗いの元祖の悲劇

 手術や処置をする前に手を洗うのは現在では常識ですが、19世紀中頃までは、「医師は紳士である、紳士は清潔である、よって、医師の手が汚れているはずがない。」という考え方が幅をきかせていました。当然、手袋をする習慣もないので、すべて素手で、清潔と不潔の区別もなく、次々にいろいろな人のいろいろな傷や臓器に触れていました。手術の際の服装も、フロックコートという黒い上着を何度も繰り返し身につけていたのです。

 手洗いは、産褥熱(出産の時に産道からバイ菌が入って全身に広がる病気)による死亡を減らす対策として始まりました。その必要性は以前にも指摘されたことはありますが、手洗いの理論を構築し、それを実践した点で、元祖と呼ぶにふさわしいのはイグナーツ・ゼンメルヴァイスです。1844年ウィーン大学の産科の助手となった彼は、産褥熱の猛威に驚き、死亡した患者の病理解剖と妊婦の診察に没頭します。

 産褥熱による死亡率が、医師と学生が診る第一産科では10%以上なのに対して、助産婦が診る第二産科では1%という事実に注目した彼は、医師による診察回数の多い妊婦ほど産褥熱が多いことに気づきます。そして、死亡した患者の汚染した臓器を素手で病理解剖した医師や学生が、原因となる物質を媒介しているという結論に達します。これは、パスツールの細菌学説が提出される10年以上前のことです。

 「解剖室から出てきた者は、産科の病室に入る前に塩素水(さらし粉)で手を洗うこと」を全ての職員に義務づけ、みずから先頭に立って徹底させました。その結果、1847年には死亡率が3%に、さらに患者ごとに手洗いをすることで1.3%にまで低下させることに成功します。

 しかし当時は古い考え方が浸透しており、彼の方針は容易には受け入れられず、上司や権威者からは逆に糾弾されます。また、彼自身ハンガリー系であったために、ドイツ語が苦手で、講演や執筆をうまくできない上に、性格が偏屈と言えるほど頑固なため、自説を根気よく広めることができませんでした。この点は前回登場したリスターが、温厚な性格で誰からも愛されたのとは対照的です。

 失意のうちに帰郷した彼は、再起をはかり、ブタペスト大学の産科の教授になります。しかし、自分の学説を認めない者に対して、その人間性をも否定するような批判をしたため、その職からも追われ、ついには精神病院で錯乱状態となり47年の生涯を終えます。皮肉なことに、リスターが防腐法を始めるきっかけとなった患者である少年が交通事故に遭うのは、ゼンメルヴァイスの死の翌日です。1969年に、ブタペスト大学がゼンメルヴァイス大学と改名されたことがせめてものなぐさめでしょうか。

院長 笹壁弘嗣

新庄朝日 第533号 平成17年9月15日 掲載

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